掃除の話メモ
昨夜ファミレスでおしゃべりしていた時に掃除や片付けなどの話が出たんだけど、所有する物を少なく保つのは重要だみたいな話をしている時に(私も同意していたのに)なんとなく違和感を感じていたのが不思議だった。
で、今朝になってから「収納場所が多くても収納する物自体が少なくても、結局片付けようとする気力が無くては片付かない」ということが私にとっては大きいんだということに気付いた。
以下も引き続き私の場合のメモなので、大部分の人には当てはまらなかったり意味不明かも。
「片付ける気力」がある状態というのは「処理できると思える程度の散らかり具合」とか「片付けの他にやりたい事が無い」時だ。
前者に関しては所有物を少なくすることで散らかりレベルが急激に増えるのを防ぐのと、処理できるレベルの内に片付けるのを繰り返すことで散らかりレベルを維持するスパイラルを作るのが重要。
だけど基本的に面倒くさがりなので(何度も書くけどトイレに行くのも面倒)、後者の条件が満たされていないとダメ。
どんなに物を少なくしても「今脱いだ服をハンガーに掛けるor洗濯籠に入れる」とかいうことすらできない状態では部屋は片付かない。
「使ったものはすぐにしまう(あるべき場所に戻す)」というのは習慣化されるまではがかなり大変。
私は、
実家(とても散らかっている)
↓
夫と同居していた家(夫の掃除により超片付いていた)
↓
一人暮らし(物が無い)
という風に住む場所が変わったのもあって、「(散らかっている部屋に比べて)片付いている部屋で過ごす快適さ」とか「散らかりレベルが高い時と低い時の掃 除労力の差」を実感したんだんだけど、一人暮らし当初の物も予定も無い状態から少しずつそれらが増えてきて(でも空間的な余裕はまだある)片付けることが 億劫になりはじめた時に、「必要なのは実際に体を動かそうという気になるかならないか」だと思った。
例えば私は読みたい本ややりたいゲームがある時はちょっとした物の片付けも後回しにして本やゲームに向かってしまう。
習慣化されるまでは片付けなんてすぐに優先順位が下がるので、新しい本やゲームなどを部屋に持ち込まないようにして土日に遊びの予定も入れなければ、さすがの私でも1分もかからずに済む片付けならやるようになる。
とにかく片付けしかすることがないような状況に自分を置くようにすればいいのではないかと思った。
その頃の私の目標は部屋をきれいに保つことなんかでは全然無くて「快適に過ごす」ことだったんだけど、楽しい事ややりたい事や気になる事がたく さんありすぎる状態を整理するためにいろんな物事から離れるようにしたら(物質的な「物」じゃなくて精神的に執着している「モノ」を減らしたら)、副次的 に部屋を掃除する余裕もできたところだった。
物がない空間でボーっとして数ヶ月暮らしていたら、きれいな部屋は快適に過ごせるなあと思うようになったので、その後の「快適」の内訳に“部屋が片付いた状態である”が含まれるようになった。
物を減らして掃除をして「自分がコントロールできる量を所持する」ことの大事さを実感するにつれ、「自分がコントロールできる量のやりたい事を 認識する(過剰に増えないように流入する情報量を制限する)」ことの大事さも実感するようになり、それは部屋の片付き具合でも改めて実感させられたりす る。
当たり前の話だけど、所有物の量をコントロールするということは、自分の欲望を(極端に言えば向上心をも)コントロールすることの極一部なのではないかなあ、と思う。
でもコントロールした結果、どういう状態になりたいのかというのを実感するためには、複数パラメータに対する快と不快のバランスを実験しながら観測していくしかないとするとやはり難しいかも。