最初は微妙だったけど、プラトンの辺りから面白く読めている。
たぶん一年前の私だったら読めなかった。
片付け本とかお金管理についての本もそうだけど、大抵の話を流して聞けるようになったから読めるようになったんだと思う。
「疑問を抱け」という哲学の本を読めるようになったのが疑問を持たなくなったからというのも皮肉な話かもしれないけど、実際に前に読もうと思ったときは数行読むごとに頭の中に疑問や確認したいことが大量にでてきてしまって疲れてしまった気がする。
たぶん処理が追いつかなくなって苦しいというかパニックに近い感じになってしまったんじゃないかなあ。
今はコンディションが良い時は、どんな本も人の話も読んだり聞いたりできる。
こういう状態(スルーできる状態)なのに情報をインプットしようとしているのは、スルーしている中でも微かに引っかかった部分を勝手に蓄積して今後の判断に使って自分が歩きたい道を歩く人間だと自認しているから(というより逃れられない業)なんだけど、「何故」インプットしようとしているのかというと、やっぱり世間とか世界に対する負い目があるからかなあ。
「何か目指すところがあって考えているわけじゃなくて、うだうだしていたいだけです」ってハッキリと言える状態でいたいというか。
解決策があったとしても実行しないということを意識していないと、考えている振りをして何も得ようとしていないと言われた時に「私が考えるという状態」について説明できなくてモドカシくなるのねー。
”何をするか”を重視する人と、”何を感じるか”を重視する人の違いなのかな?
そういう分け方だと後者に属する私は、だからFに憧れるのかも。
後半、だいぶ話がずれた。
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